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  2. 明厳寺の歴史

明厳寺は新潟県上越市高田にある「浄土真宗本願寺派」の寺院です。

「鎌倉権五郎景政四代の孫、長尾治郎景弘と号す。右大将頼朝公に仕て軍功有り、頼朝公薨去の後、出家して山門に入り唯円と号す。暫く天台止観の玄旨を学び後に、高祖聖人の御法を慕ひ御弟子となり、信濃国有縁の地川中島に一宇を建立し勝徳寺と号して数代相続す。くだって天文年中甲越の兵火の為に焼亡し暫く退転す。時に同姓越後国守長尾信濃守為景道場の退転を悲しみ、其の末子某を出家せしめて中興唯円と号す。領地信州桑原の里に一宇を建立して明厳寺と号す。」(文化8年融浄住職書簡より)

明厳寺の前進である勝徳寺の建立、焼失、そして再建・・・

鎌倉権五郎景政四代の孫、長尾治郎景弘が川中島に一宇を建立し勝徳寺と号しました。勝徳寺は数代続きましたが、天文年中甲越の兵火の折に焼亡してしまいます。同姓越後国守信濃守長尾為景は道場の焼失を悲しみました。為景は末子を出家させ、その末子は出家して唯円と名乗り、唯円は信州更科郡桑原村において一宇を建立し明厳寺と号しました。

忠輝の高田築城と寺町の形成

川中島(18万石)の領主である松平忠輝は、慶長15年2月3日、堀家の旧領を加え60万石の大名として、あとは海津城代花井吉成に政務を任せ福島城へ移ります。数年前堀秀治の築いた福島城はしばしば洪水の被害を蒙るところから、幕府は一門忠輝のために、国役譜請として舅の伊達政宗・上田の真田信之・小諸城主仙石秀久ら13大名に命じ、高田の荒川左岸の菩提が原に広大な堀と土居を回らした平城を築かせます。大坂冬の陣の直前で工事を急ぐ余り、威容を誇る天守閣や高い石垣は使用されませんでした。慶長19年3月に着工し、わずか4か月で完成させたといわれるが、実際には外郭や城下町は前年のうちにほぼ出来上がっていたようです。計画的な新城に併せて、城下町も基盤割に作られ整然としたものでした。まず人を集めるために、強制的に或いは保護政策をとって、福島・春日山城下を中心に周辺から住民を呼び寄せました。福島城下の直江津町民の9割が移り、川中島からもかなりの人々が移転したといわれます。同時に各地から移したものに、多数の寺院がありました。城下繁昌と西側が手薄で、有事の際の宿舎にするために2列に配置し寺町を形成しました。その数は180か寺を超え、「高田に過ぎたるもの犬・寺・坊主に時の鐘」(落首)と、唄われたほどです。

 

明厳寺、高田への移転

この寺町の中には、信州から移った浄土真宗大谷派の触頭(ふれがしら)浄興寺(のちに浄興寺派)と本誓寺の二大寺がありました。これに対して本願寺派には有力な寺がなく、のちに後小松天皇の勅願寺、越中の瑞泉寺を継承した勝願寺が水内郡南条(飯山市旭)より招かれて高田に移転します。これに随従したのが明厳寺などの9か寺でありました。明厳寺の住職は4代目浄順、1618年のことです。

 

現在の本堂

当時の写真

 

明治7年5月2日に当寺のある辺り一帯が類焼してしまう大火があり、明厳寺の本堂もこの時全焼してしまいました。また本堂だけでなく多くの書簡や寺宝も焼失してしまいました。本堂焼失後はここから1キロほど離れたところにあったとされる酒蔵を移築し仮本堂としておりました。その後門徒数の増加による手狭さ、建物の老朽化が進んだことから昭和57年に取り壊し現在の本堂を再建いたしました。今では珍しくなくなりましたが、当時はモダンな鉄筋コンクリート造の完成は新聞にも取り上げられ、多数の寺院関係者らが視察に訪れました。

現在の住職は16代目になります。

当時の本堂
現在の本堂